10月8日主日週報と説教要約
その恵みの栄光を賛美
To the Praise of the Glory of His Grace 【エペソ1:3-6】 202310.08 (主)
序論
全知全能なる神様の御心は、永遠に変わる事はありません。神様はその御心を「世界の基の置かれる前に」立てられました。神様はご自分の御心を妨害する勢力があれば、それが誰であろうと何であろうと、全て撤去し片付けてしまわれます。神様はその御心を必ず成し遂げられます。
初めに神様(三位一体)が天と地を創造される時には、悪魔はいませんでした。ところがいつの間にか悪魔が存在するようになりました。第一ヨハネに次のような御言葉があります。「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」(Ⅰヨハネ3:8)
ここで「初め」と記されているのは、限りなく初め(無限太初)以後の事であり、アダムを創られる前に該当する言葉です。それで創世記1:1-2節の間に、何か事件があったと考えられます。創世記1:2節の原文の始めに「ところで」、或は「そして」と言う言葉が入っているのを見ると、創世記1:1-2節の間に、悪魔の反乱と堕落と、さばきがあったと考えられます。悪魔のさばきの痕跡を証拠隠滅してはならないのです。
1.選びと予定をキリストの中で(1:4、5、11)
(1)選び(4)
救いにあって「選びと遺棄」と言う言葉を使う人々がいます。彼らは極端に「永遠なる神様の子どもたちと、火の池である地獄に行く人たち」と分けて、どちらかに選ばれ予定されていたと言います。そうであるなら人が死んだ後に、さばきがなくても良いのではないでしょうか。聖書は言っています。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」(ヘブル9:27)。従って「キリストの中で:キリストにあって」と言う条件を無視してはならないのです。
(2)予定(5)
またある人々は予知予定を主張します。神様の御目から見ればそう言えるかもしれません。彼らは、神様は誰がキリストを信じるのか前もってご存じで、予定し選ばれたのだから、その人は最後まで努力して救いに至ると主張します。しかしここで、「キリストの中で:キリストにあって」と言う条件を無視してはならないのです。
(3)受け継ぐ者(1:11)
「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」
永遠の御国を受け継ぐ者となっても条件があります。それもやはり、キリストの中でという条件なのです。神様の御国はキリストの中で、キリストと共に相続する国です。このように予定と選びとは、個人の救いを定めておいてから、決定された事を通知するのではありません。ここで言っている選びと予定とは、キリストの中での救いの方法を言っているのです。その時期は「世界の基の置かれる前から」です。
2.神様の恵み(1:6)
(1)神の子どもの恵み
神のかたちと神に似せて造られた人間は、サタンに誘惑されて罪を犯し堕落してしまいました。その事によって、全ての人間に死が入って来ました。神様はそのような人間を見捨てられず、もう一度造り直してご自分の子どもとされました。神の子どもの特権は、神様を父なる神としてお仕えし、父なる神様の全てのものを相続する事です。神様は愛するキリストの中で、私たちを子どもとして受け入れて下さったのです。
(2)神の子どもとなる道
神の子どもとなる道は大きく分けて三つの方法があります。
初めに、キリストを心に受け入れて、その御名を信じることです。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)
二番目に、養子となることです。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」(ロマ8:14-15)
三番目に、結婚する道です。
「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(黙19:7-8)
このように神の子どもとなるのは、自動的になるのではありません。
(3)神様の独り子と長子
「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ロマ8:29)
独り子とは家族の中に他の子どもが、一人もいないと言う意味です。ところが家族に長男がいるなら、他に兄弟姉妹がいるとして合法的に長男、長子として認められます。ロマ書8:29-30節の御言葉と、本文1:5節「ご自分の子にしようと」と言う御言葉は、養子縁組を計画された神様の御心と一致しています。イエス・キリストは独り子として受肉され、人類の罪の贖いのために十字架で死なれ、復活される時には長子の称号を受けられました。このように私たちは、神様の恵みを受けて、神様の子どもとなったのです。ロマ書8:29節の御言葉は、私たちが御子のかたちを見倣う時、キリストが合法的に長子となられたように、私たちも合法的にしなければならないと言う御言葉です。これが神様の恵みです。
3.神様の栄光(1:6)
(1)神様の栄光
ヘブル語の栄光「カバード」と言う言葉は、隠されていた重いものが現れる事を意味します。例えば、砂に覆われていた岩が波によって砂が洗われて、重い岩が現れると言う意味を含んでいます。ギリシヤ語の栄光「ドクサ」と言う言葉は、「ドケオ」と言う言葉から発生しました。その意味は隠されていたものが、現われる事を意味します。
神様にのみあるべき奥義が、ある契機(きっかけ)に因って現れる時に、それを栄光と言います。神様はこの栄光を天地創造以前の初めから(無限太初)、「世界の基の置かれる前」から、持っておられました。この奥義は、イエス・キリストを通して現れる事になりました。従って私たちをキリストの中で、即ち、愛する者の中で、神様の子どもとして受け入れて下さった、その恵みの栄光なのです。
(2)奥義が現れたので
神様の永遠の奥義は何でしょうか。パウロはこの奥義を、神様の啓示によって知りました。パウロはこの奥義を悟って驚きながら、エペソ書に次の様に記しました。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:31-32)。このエペソ書の御言葉は、創世記2:24節に記されている内容です。神様の奥義はキリストと教会を一つにさせ、永遠に共に幸せに生きるようにする事です。この奥義はキリストと教会を通して現れました。ヨハネは黙示録でこれについて、次の様に言っています。「また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(黙19:6-8)
(3)ほめたたえるため
新約聖書のマタイの福音書1章から、ヨハネの黙示録18章までに一度も出て来なかった、ハレルヤの賛美が終に出て来ます。今まで隠されていた神様の大きな奥義が完全に現わされたので、その栄光をほめたたえるためなのです。神様の計画は、イエス・キリストが十字架で血を流されて死なれ、復活された事で終わるのではありません。また私たちが神様の子どもとなる事で、終わるのでもありません。神様の子どもとなって、その恵みの栄光を永遠にほめたたえるためです。
結論
神様の選びと予定の意味とは何かと言う事を、聖書的に整理して御言葉をお伝えしました。神様の恵みとは罪人となった私たちを、愛する御子キリストの中でご自分の子どもとして、受け入れて下さった事を意味します。ですから神様の子どもとなった聖徒は、その恵みの栄光をほめたたえる目的をもっている人です。これは救われた時から始まり、世々限りなく続けられるべき事です。
(1)選びと予定の聖書的教理とは何ですか。
(2)神様の恵みとは具体的にどのようなものですか。
(3)神様が救われたその子どもたちがすべき事は何ですか。
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